「過去を贖(あがな)う。」と言う事。
「冤罪(えんざい)」無実の罪。
「免罪(めんざい)」罪を許す事。
「贖罪(しょくざい)」金や物を出して、罪のつぐないをすること。キリストが十字架にかかって、人類の罪をあがなったこと。
「知らず識(し)らずに犯した罪咎(つみとが)は、霜露(そうろ)の如(ごと)く作(な)さ令(し)め給(たま)へ。」とあります。
「盗人(ぬすっと)にも三分(さんぶ)の理(り)」。
どんな悪い事をしている者にも、よく振り返ってみれば一生の内には一つや二つは善い行いも見つかりますし、悪い行いをしたのにも、やはり一つや二つはそれなりの理由・言い訳はあることでしょう。
黒く汚れ曇った玉の中にも、美しく綺麗な白い珠も一つや二つは混ざっている、と言う事でしょう。
我々人間は、その場その場、またその時その時をそれなりの「理由付け」・「意味合い」を持って生きております。大概そう思っております。そう想い込んでいるものでしょう。
知らず識らずとは言え、罪咎を犯している事が無い人は、この世に存在しないことでしょう。
かと言って、そんな事ばかり考えていると、心が重くなり、また暗くもなり、陰鬱になりますし、その負のエネルギーで、負を引き寄せてしまいます。
だから、失敗などすると「すみません」と謝って、済まします。「すみません」と済ます訳です。
ところが、「すみません」なので「済んではいない」筈です。なのに、「すみません」と言った者は「済んだつもり」になります。そして、また度々(たびたび)同じ様な過(あやま)ちを繰り返すのです。
私たちは「すみません」を軽く連発しますが、この「すむ」は、済む、澄む、住むなどとそれぞれの漢字で使い分けられ、時間的 に「済む」、濁ったものが「澄む」、また定住して「住む」など、動きのあったものが落ち着くという意味があります。
そして日本では「すんでいること」に至高の価値が認められ、人生の目標として掲げられているようです。
つまり、清廉潔白で魂が綺麗に澄んでいること、掃き浄められた庭や境内、真っ白な雪など、濁り曇りの無い澄んだ美が評価され、我々の心を清らかにし、魂や心が透明に澄むこと、清々しく生きることが最高の規範として共有されています。
「すみません」の否定形である「すみません」「すまない」は、逆に「ご迷惑をおか けして」「お騒がせして」「ご面倒をおかけして」など、自分自身が「澄まないこと」「落ち着かないこと」「乱れていること」、という意味・感覚を含んでいます。
ですから、本当は謝る必要もないような場面である、個性的な雰囲気のことですら、ちょっとおさまりの悪い部分、落 ち着かないこととして自覚し、曇り・濁りを生じてしま ったことを進んで認めて陳謝するのです。
「過ち」の「渦(うず)」は「過去の渦」です。よほどの事が無い限り「過去の渦ち」は済まないのです。「過去の渦ち」には「過(か)」が二つもあります。それだけきつい訳です。厳しい訳です。過ぎ去った過去は取り戻せない、のですから、「過去の渦ち」を贖うのは甚(はなは)だ難しいのです。
「すまない」をすます方法の一つに「水に流す」というのがあります。
我々は昔から、万事水によってすます、浄化することができると考えて来ました。
つまり、禊や浄めにより、「すまない」は処理されてきたのですが、それを通して得られるのは 「すっきりする」「心が洗われる」という浄化。
しかしながら、何度「すみません」と言っても、簡単にすまされるものではないのです。
実際に「すまない」は、文字通りに、すまないのです。人類の我欲で、美しい川や海や大地を失い、生態系を狂わせ、地球の危機。水も空気も濁り、人類の汚れの処理の方法として「水に流す」以外のやり方が見出されねばならないのでしょう。
地球は、今や「すまない」が簡単にはすまなくなっている、取り返しのつかない状態です。
「すまない」が簡単にはすまないことを本気でかみしめ、己と人類の過ちを謝罪すべく行動したいものです。