境なぞなし

山が陽なら、谷は陰。

 

「玄(げん)」とは、宇宙の最も深い谷のことを現しています。天から降り注いだ雨水は、岩肌を洗い、樹木を伝い、草に滲み、地に潜り、やがて谷へと降(くだ)りながら「瀬」と成って行きます。

 

天から山を降った生命の水は、谷へと凝集し、凡(あら)ゆる生命を育む素となります。

 

谷、そして更に深い玄には、生命を産み出す働きが在ります。これを「谷神(こくしん)」と謂(い)います。(※「謂う」は、「仮に例えて言う」場合に用います。)

 

生命を産み出す源、象徴として「谷神・玄」は女性の働きを示しています。是は「天地の根」だと言うのです。日本でも古来、神祀りの社(やしろ)は山と山の間、つまり谷からやっと「郷(さと)」へ出た処に設けたようです。

 

谷が生命・生産の象徴・神として祀られたのは中国も日本も似ています。「山と谷・瀬・郷」の関係は「先祖や父母・念いや愛や行(ぎょう)や業(ごう)の凝集である自分・子孫」に合います。

 

「玄」と言う字の「なべぶた」の下の「糸」の様な形は「先祖代々の因縁、宿業(しゅくごう)」を表わしています。

 

先祖代々の宿業が子に集まるのです。それは、連綿たる山々を降って来た生命の水が、谷に集まり、瀬となって、やがて郷に至ります。

 

赤土の山肌を経て来た水は、瀬を赤く染めます。瀬の在り様(よう)は、山と谷に全て懸かっているわけです。流れ込んでくる水を選び分ける訳には行かないのです。

 

「自分が何処に位置する瀬になっているかに依って」過去の善悪を、どの程度受けるかが決まる訳です。

 

一つの「瀬」を取って見ても、幾つの「山」と幾つの「谷」の水が凝集する「瀬」かで、随分違って来る訳です。自分に流れ込んで来る水の良し悪しが、生まれ出でたる条件に大きく懸かって来るのです。

 

そのなかには自己選択の余地が無い事柄もあるのです。謂わば「避けて通れぬ道もある。」訳です。是を一般には宿業(しゅくごう)と言います。

 

自分とは「瀬」です。「山や谷」と言う先祖の「念いや経験や功徳や罪」と言う「記憶と可能性」を凝集した位置に自分は居ます。仮に、自分が避けても必ず「郷」という子孫に行きます。

 

全てにおいて、境などありません。

 

先祖も自分も子孫も繋がっていますし、過去世も現世も来世も繋がってますし、もちろん、自他の区別も境も無いのが真実です。全ては元一つです。

 

宇宙は神のご意図・ご意思の現われであり、神の祈りそのものです。

 

その縮図となるのが、地球の自然であり、一つひとつの命です。

 

宇宙の意思は人にも繋がり、全ての命が宇宙と一体、一つの偉大な命です。

 

宇宙の意思に目覚めるのが、霊の進化の過程であり、成長です。

 

人の命の源は宇宙意思から生まれてきたわけですから、人類は皆、御魂の奥に、神の願いを担っています。

 

全ての命が結ばれ、補い合い、助け合い、分け合い、

 

神の祈りを共に実現するのが宇宙の根本です。

 

山脈

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