由緒書

熊野新宮

阿須賀神社について

阿須賀神社は、日本書紀にしるされている熊野村、熊野神邑でありまして遠く第五代孝昭天皇の御世の創立と申されます。ご承知のとおり伊邪那美命が熊野に参られ御生みになった神々をお祀りし、従って熊野は黄泉の国常世の国と読まれ、初め家津美御子命は貴袮谷、結速玉命はアスカの森に二宇の社、第十代祟神朝には熊野川上流の音無ノ里、結速玉命は第十二代景行朝、今の新宮に遷座、当社は熊野発祥の地と言われています。(長寛勧文1163年)(熊野山略記)

阿須賀とは、阿は接頭辞、祭祀生活を営む好条件を備えた霊場とか或いは浅州処と名づけられる地名で、此の地方の国魂神(在来神)であったものが、中世以後熊野隆盛なりし頃の御幸日記を見もしても当社奉幣参向、三山に習合準ぜられるようになりました。(中右記1109年)今国宝の多いのをみても朝野の崇敬が察せられます。

神社背後の蓬莱山には、第七代孝霊朝、秦人徐福は始皇帝の苛政を連れ不老不死の仙薬を採り、童男女三千を率い五穀百工を携えて東海に船を浮かべ当山に参って帰らず子孫昌したと伝えられる徐福ノ宮がございます。

尚これらの歴史を裏付けるかのように近年数々の考古学的遺蹟と遺物は其の痕跡を証明し中央学界の話題になりました。平安朝の昔から上下貴賎競って不老長寿神仙境にあこがれ、霊薬ありと聞いて蓬莱島を探し求めて熊野に詣でたのであります。

然して熊野路が持つ魅力は観光の魅力、山や川、岩や温泉だけの魅力ではありません。路のすみずみに遣されている歴史と宗教的なものであると申されます。産業国土の開発の威によってこれらの遺産が消え去り行く中に熊野のみが持つ美しさが言い知れない魅力だと言われております。

神仙説と結ばれた秀麗な蓬莱山の容相、古典的なたたずまい、熊野新宮阿須賀神社は幾多の記録伝説や考古学の見地からその古き歴史と信仰生活のあとが偲ばれる蓬莱にございます。

御祭神  事解男命、家津美御子大神、夫須美大神、速玉大神

配神   黄泉道守神、建角美神

例大祭  毎年十月十五日に行います。

社殿造営 徳川幕府歴朝の昔時の尊厳を保持し造営維持の方法ほ設け、嘉永七年に   将軍 家定 紀伊国主をした社殿の再建を成し、その結構宏壮威麗でしてが戦災の為悉烏有に帰し、昭和五十一年に鋼板葦社殿が復興致しました。

蓬莱山  史跡飛鳥(阿須賀・アスカ)の森は古来禁足地となっていた聖域にございまして権現御創祀の神蹟、即ち最初は独立した斉島(神の森)原始期の磐座であってその麓には上・下・両古代祭祀遺跡と、後世両部信仰に関係深い熊野諸尊御正体埋納所(経塚)を営み、熊野信仰の一霊場であったことがわかるのでございます。今に至る蓬莱山に対する信仰には変わりありません。

境内三光社 熊野三毛津神と尊称されまた夫須美神命の荒御魂、熊野党の母神とも言われるなどその創祀は並宮として更に古代にさかのぼるものと思われます。

徐福の宮 第七代孝霊天皇の頃、秦の徐福が始皇帝の命を受けて不老長寿の神薬を求めてこの熊野に来り、蓬莱山の麓に住み、捕鯨、製紙、造船等を導きさ里人の尊敬するところとなり、この地に奉祀されたと言われています。

神宝(国宝)と考古遺物 神宝は古来遷宮の都度朝廷・貴族・武士より御寄進ございまして稀世の宝器、紀伊続風土記に掲載された神宝の数、三十三種六十九点におよんでございます。今は当社で伝来として国立京都はくぶつかんにほぞんされ、此の外近年発見された数多くの弥生須恵、土師器の外、祭祀遺物を始め和鏡八点、鋼板毛彫鏡七九点(藤原時代)御正体諸尊像約二百点(鎌倉・南北朝時代)は、それぞれ御由緒深い御社歴を証するものでございます。

新宮市阿須賀一丁目二ー二五

熊野新宮

阿須賀神社