行者の詩(ぎょうじゃのうた)

あなたが今、目の前にある長い階段を見詰めて、上(のぼ)るのを躊躇(ためら)うなら、その階段の先に在るものを知らないからです。

 

「苦」と云う名を付けられたその一段一段は、踏み締めて、通り過ぎたのち、名を変えて行きます。

 

あなたが「疲れた・・・」と、言って腰を落としているその一段が、あなたの汗の滴(したたり)を、身に受けて呉れているのです。

 

もし、孤独に陥り「心ある者のまなざし」を求めたくなったら、あなたが何処(どこ)にいるかを眺めればよいのです。

 

挫(くじ)けかけた「あなた」が見つける「自分」は、無数の煌(きら)めく星と同じく、「宇宙」の懐(ふところ)にいる「自分」ですから・・・。

 

宇宙はあまねく平等に、生きる場を開放して呉れているのです。

 

さらによ〜く、冷たき視線の内奥(ないおう)を、覗いて観れば解るでしょう。

 

「心なき者の冷やかな視線」の奥に、観えるのは、その者の「内なる小さき宇宙」が閉ざされて、却って、あなたよりも苦しんでいる姿なのです。

 

見えざる悠久(ゆうきゅう)の過去を知らざるが故、他者の「内なる宇宙」が見えざるが故、「真実の声」を聞かざるが故、自らを歪めてしまっている姿なのです。

 

その「小さく閉じて歪んだ宇宙」の姿すら、「真実の教え」を説かんが為、「大宇宙」があなたに遣(つか)わした化身(けしん)なのです。

 

すべての「苦」を「楽」に変えんと上(のぼ)り行く「行者」よ!

 

識(し)るが良い!

 

「遣いの者は、常に最初はあなたが避けたい『苦』の姿を用意して現れる」と云う事を!

 

その「苦」の姿を、あなたの目の前に映し出している太陽が彼方に在る事を、

 

「真の行者」よ!

 

「自ら光りを発する者」たらんと行く者よ、

 

映し出される影に脅える事はないのだ。

 

その影は「自ら光りを発する者」では無いのだから。

 

当たる光りが少ないが故、影となりて現れたる遣いなのだから。

 

あなたが「光」を注いでやれば、「苦」の黒い影は消え、白い衣を着た「楽」の姿に変わるのだから。

 

それは「光」を求めていた只の「姿」でしかなかったのだ。

 

「苦」を前にして「退(しりぞ)く」事が、あなたの心に浮かぶ時、逆に「光と智慧と生命」を用意して「苦」の中に歩んで行きなさい。

 

「他を化(け)する真の行者」よ! 

 

識るが良い!

 

「あなたは常に護(まも)られている」事を。

 

「闇の遣い」を「光の遣い」の姿に化する「真の行者」が振り返る時、超えてきた階段は、その名を「楽」に変えている。

 

そして、あなたの名も「求める者」から「救う者」へと変わっているのだ。

 

その時、あなたは「他を識る者」から「他を生かす者」へと超えている。

 

また、「迷える者」に出逢ったなら、解るだろう。

 

その者は「外に光を当てずに、世界を描いている者」である事を、

 

「自らの内にのみ光を当てている者」である事を。

 

その者の目は低きに在るが故、その者の目を、高きにしてやれば良い。

 

「真の行者」の音声(おんじょう)で、低き地から這い上がりたる景色を観せてやるが良い。

 

「地から授ける、天の音声」を「真の行者」が唱える時、海の潮(うしお)のうねりの音(おん)となりて、「迷える者」の地を震撼させ、雷雲に観えざる天の頂きから、光となりて轟(とどろ)かん。

 

(いの神)

 

山脈

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