言霊の「義」を疎(おろそ)かに解釈することは、「法」を離れ「報い」を仇為(あだな)し「道」を違えることになる。
解釈するとは、「釈迦」の身を「解体」し、切り刻み、身を漁り、骨を貪ることなり。
「説義解、法果道(せつぎげ、ほうかどう)」
「説」かれたる「法」を読み取り、その「義」に依り「果」を異にし、やがて振り返り「道」を「解」する「理(ことわり)」なり。
真実の法はひとつであり、「説」もひとつ。
ところが、人の捉え方は千差万別。
受けた側は、それぞれの「義」を以って解釈し、意義を見出し、意味付けする。
それ故、結果も千差万別、異なった結果が現れる。
「真実あるがまま」がそう簡単に「解る」「解らない」では可笑しい。
「解る」「解らない」と軽々しく口にするものではない。
との教えをいただいたことがあります。
すべてに通ずる真理を、「半紙」と「薄墨」を例に説かれました。
「半紙」は「薄墨」を生かす「場」である。
「薄墨」は「半紙」の世界で生きる「生命の姿」、お互いに邪魔をせず静かに認めつつ融合する。
この心の有無で成り行きも変わるし、結果も変わる。
「真実あるがまま」はこの「半紙」と「薄墨」のように広がり染み入るのです・・・と。
「半紙」と「薄墨」、如寂の境界(きょうがい)を、「宀」と「女」を合わせた「安」の字にも感じています。
「安」は「宀(べん)」と「女」の組み合わせ。
「宀」は祖先の霊を祀っている廟(みたまや)の屋根の形で、その下で女の人が座ってお祈りをしている姿です。
お嫁に来た女の人が旦那さまの家の先祖の霊を祀り、旦那さまの家の人になる儀式をしているのですが、それによって新妻はここの家の人であることを認められ、先祖霊にも守られて、安らかで平穏な生活が送られるということ。
「安」は「やすらか・やすらかにする」という意味が元の意味です。
御先祖様や御家族のエネルギーに、そこに嫁いだ女性が融合し、安らかな空間を作る。
まるで 「半紙」と「薄墨」のようです。
どんな存在に接する時も、静かに認め、融合し、安らかな空間や状態を作ることができる存在でありたいと思います。