歴史や御社の構造・位置・向きの意味を理解しての祈り

祈りにおいて、様々なことを勉強し、幅広い視点から観じての祈りに出来れば、その祈りも深いものとなります。

 

たとえば、諏訪大社を例に出しますが、諏訪大社は春宮・秋宮・前宮・本宮と4社あります。その関係性や違いを知っているのと知っていないのとでは、祈りの仕方や深さも違ってきます。

 

諏訪市博物館に所蔵されている、シンポジウムの資料を読んだり、日本で最も諏訪信仰に詳しい方々と一緒に、諏訪の地をあちこち巡り、交流をしたりすることも大切です。

 

長年研究をされている方は、やはりいろいろな視点から物事を見て分析しているので、非常に多くのことを学ばせていただけます。

 

諏訪の聖域は、どこも4本の御柱で囲まれていることは御存知だと思いますが、この第1~第4までの柱が、どこを起点にどういう方向を意識して建てられているかを知ることは、深い祈りに繋がります。 

 

詳しいことがわかりやすく説明されているシンポジウムの資料がありますので、そちらを紹介します。

 

以下、田中基(もとい)氏が書かれた資料から抜粋。

 

《下社と上社の祭りの場の機能》

 

 

現在、諏訪の御柱祭の真っ最中でして、ちょうどこの山出しと里曳きの間の時間に、御柱ってどんな発想でもって始まった祭だろうと考えてみるのもいいんじゃないかと思います。

 

しかし、その本来の世界像というものは文献を探してみてもどうも判ってこない。

 

そこで諏訪大社の古い祭り場のあり方や、神を発動するやり方などから、御柱の神観念を導きだせたら、と思い試みることにします。

 

諏訪1

 

これは、下社秋宮と春宮の図ですが、奥に、イチイの木や杉の神木があって、その前に宝殿がありますね。

 

立春の日、旧1月1日にこの宝殿に納められていた神霊が春宮へ移動して、今は春宮に入っています。

 

これが御柱の里曳きの前には、新しく建てられた西の宝殿へ移ります。これがまた立秋の日に行われるお舟祭りで、今度は秋宮へ神霊が移ります。

 

それで下社の神観念というのは、日本民俗学で言うように、冬、山に籠った祖霊が、春、里におりて来て、稲作なんかを手伝って、また秋になると山宮に帰る、春と秋の、里宮と山宮を循環する構造をもった神さんであると理解されています。

 

そういう下社の神さんの構造と上社の神観念の構造とはかなり違うと思いますので、まずはじめにそのことを申し上げようと思います。

 

諏訪2

 

上社本宮には硯石(スズリイシ)という水鏡のように水がたまる巨石がありますが、その巨石の方を向いて東・西の宝殿が建てられています。

 

ところが、室町時代以降だと思いますが、現在の本宮の拝殿はその方向から90度南側にずれた方向を向いて建てられている。

 

拝殿の方向と宝殿の方向が分裂しているわけです。

 

現在、、ほとんどの方は拝殿の方に向かって手を合わせられるので、拝殿を中心に今度建てられる御柱の順番をみると、右手前が本4、左手前が本1、左後ろが本2、右後ろが本3となります。

 

ところがこの順番は、下社の秋宮や春宮、それに上社の前宮の御柱の配列といちじるしく異なっています。

 

秋宮などは拝殿からみて右手前が1、左手前が2、左後ろが3、右後ろが4と、時計廻りに1⇒2⇒3⇒4と建てられるわけです。そこで上社本宮の御柱の配列は極めて特異であるという人がいますが、そういうことではないんですね。

 

古い神祭りの場と思われる、巨石の硯石(中世には御座石という神篭石があったと記されていますが、いまはみつかりません)と、その手前に左、右に並んで建てられる新旧の宝殿を中心にして御柱の配列をみれば、右手前が本1、左手前が本2、左後ろが本3、右後ろが本4となり、秋宮などと同じ配列でやられているわけです。

 

このことから、御柱は拝殿が分裂した方向に建てられる以前から行われていたんだ、ということが判ります。

 

それでは新しく方向をかえて建てられた拝殿はいったい何を拝んでいたのか、という疑問がわいてくるわけですが、これにはいろいろの説がありますが、僕は宮坂清通氏の考え方をとります。

 

拝殿の背後に幣殿があり、その後ろの中央に経文の納められたストゥーパ、つまり鉄塔があったわけですが、それを拝んでいたと同時に、その背後の方角には神宮寺の普賢堂があり、中には普賢菩薩像が安置されていたわけですね。

 

この仏像を拝んでいたということになります。いわゆる「天正の古絵図」をみますと、たしかに拝殿の方角に神宮時の普賢堂が大きく描かれています。いわゆる神仏習合の時代に、上社では神観念が一大転換して、制度的に仏体を拝む方角に拝殿が新しく向きを変えたと考えられます。

 

ちなみに当時の生き神、大祝(オオホウリ)は普賢菩薩の生まれ変わりだという思想に支配されています。

 

諏訪3

 

次に上社のもう一つの神社である前宮ですが、ここには皆さんお気づきのことと思いますが、下社の秋宮や春宮、そして上社の本宮に建てられている宝殿は建てられていません。

 

これにあたるものを強いて探せば、あの十間廊(ジッケンロウ)の側にある「内御玉殿(ウチミタマデン)」ですけれど、下社の秋宮・春宮、そして上社の本宮のそれのように御柱年ごとに東・西どちらかの宝殿が新しく建てられて、そこに神霊が移動するというような性格のものではないわけです。

 

この建物の性格を端的にいえば、生き神様である大祝の生きみ魂、ないしは祖霊を祀る場所であって、その中に納められていた神宝もそのような性格をもつものだったのです。

内御玉殿の西側に広い平地がありますが、、そこは中世には生き神大祝の住んでいた神殿(ゴウドノ)の諸施設がたちならんでいたわけで、その東側の尖端に内御玉殿が大祝の祖霊を祀る施設として機能していたわけです。

 

現在のようにポツンと内御玉殿が残った状態では当時の光景を想い起こすのは難しいわけですが。

 

だから前宮は、他の三社と異なって四本御柱を立てるのみで、宝殿はない。

 

そして、現在という前宮という呼び名は、中世は神原(ゴウバラ)と呼んでおります。

 

つまり生き神である大祝の住んでいる神殿があるところ、という点が強調されているんです。

 

当時は大祝が即位したあと地主神の十三社というのを巡って即位のアイサツをしているわけですけれど、その二番目に参る神社に前宮と記されていまして、現在のように一帯を総称して前宮というのでなく、十三社の一つとして前宮の名があったわけです。

 

地元では前宮というのは、本宮以前からあった社というふうに時間的に理解されているようですが、僕はタケミナカタやその妃の御陵だと伝承されているところの前をいつきまつっている神社である、という意味で空間的に理解しています。

 

だから 正確には前宮というのは、現在の神域の一番上にあるやしろの地域にだけ限定して考えた方がいい。

 

やはりこの神域一帯の呼び名としては、その性格からして「神原」、つまり生き神・大祝がすんでいる神殿のある地域、と中世風に呼んだ方がいいと思います。 そう考えてきますと、下社の秋宮・春宮のように一年を双分して循環的に神霊が行き来する対偶的、双分的な社と、上社の本宮・前宮は性格が異なります。

 

本宮・前宮は双分的な、対偶的な神社ではない。 本宮は古くは岩坐を中心にして宝殿を左右にまつる社で、前宮は社というよりも生き神・大祝がすんでいる処です。

 

つまり性質が異なる二つの場であるわけです。 (抜粋終了)

 

というわけで、御柱の配置がどうなっているかも考えれば、どの位置でどう祈ったらいいのかも見えてきますよね。

 

そして、諏訪が日本列島にとってどういう役目になっており、どことどういう風な繋がりがあるのか、龍脈も感じながら祈れたらいいですね。

 

そして、もうひとつ。諏訪というと諏訪大社という4社がやはり有名なのですが、それより遥かに昔からこの地を護って下さってる他の地主神さまたちを忘れないでいただきたいです。

 

祠やお社などなくても、見えないところで、ただただひっそりと護り続けている方々がいらっしゃいます。

 

訪れた神社の御祭神さまだけでなく、他の神さまや仏さまや龍神さま、この地を護って来て下さった歴史上の全ての方々、そして今現在護って下さってる方々にまで大きく大きく意識を拡げて、全ての存在に感謝の気持ちをお伝えできればいいなと思います。

 

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