一大事の前の大事。
大事の前の小事。
小事の前の小々事。
小々事の前の小小々事。
小小々事の前の・・・の前の・・・の前の・・・の前の微妙事(みみょうじ)。
まだ、事が起こる前です。
「なんとなく」とか「予兆」とか「虫の知らせ」とか「直感」とも言える「微妙事」。
微妙事の段階で感じ取れるか?それとも、一大事になってから、初めてわかるのか?
時は待たない・・・どちらでわかるかで、「まにあう」の意味が違ってくる。
「間に合う」のか「魔に逢う」のか。
知ることは力である。
ミツバチも同様ですが、知識を得るには、原則として3通りあります。
1.生来の知識は遺伝物質に書きこまれている(本能)
2.知識は、自分自身の経験によって獲得される(学習)
3.高度な段階として、同じ種の仲間が経験した情報を伝え合う(情報交換)
学習と情報交換のために、感覚器官は外界と結びついています。感覚器官は、外界に対する受信的な窓としてでなく、中枢神経系の感覚統合系と連携して、生物学的に重要ではありますが、現実には、物理学的には存在しない情報を能動的に解釈し自分のものとしています。
ミツバチは、生まれつきの能力・経験を通して学習する能力・そして情報交換をするという能力を最大限に活かして賢さの基盤となっています。
人間も同じですよね。
「無生法忍」とう言葉がありますが、この世の中の本当の在り方を認知し、悟る時、本当の安らぎを感じることができると思います。
全てのものは、不生不滅であるという真実の理(ことわり)をさとった境地が「無生法忍」。
真理は、綺麗な光の珠。真実の理とは、というと難しく聞こえるかもしれませんが、きっとシンプル。
「理(ことわり)」とは、素直にそうしてみると、自分の心が爽やかで、明るく、清々しくなり、綺麗な光の珠になることを感じ取れる事。
もちろん、自らの心の赴くままに従えども則(のり)を超えず!です。
この世とあの世の規則である理法に従いながら、他者を生かす真実の世界観を持つこと!
真実の素晴らしさをハッキリ・しっかり示すこと!
自ら、囚われを無くし、明るくなり、軽くなり、楽になり、笑い、愉しみ・・・廻りにも同じ事を教えてあげる!
つまり、『仁』です。
儒教の五常。五つの徳。人の守るべき五つの道「仁」「義」「礼」「智」「信」。
この中の「仁」です。
「仁」は「親しむ」こと。大系漢字明解には、以下のように記されてます。
「人・二の二人が親しむ。一方の人に慈愛があるから、二人は三人となり、三人は萬人となる」
「仁」は「したしむ・いつくしむ」とも読みますよね。愛であり、恵みであり、思いやりです。
人間だれしもが持っている素晴らしい資質です。
以前、ダライ・ラマのお話を聞きに行った時、彼はこう仰ってました。
『人間価値を促進して、人間の資質を高めて下さい。』と。
この「仁」を廻りに響かせ、二人から三人へ、三人から萬人へと光の珠が繋がり大きな愛の輪ができるといいですよね。