じたわける・・・

【じたわける

おのれのなかの

さかいこそ

くるしみのいん

ふじをさとれよ】

 

【自他分ける

己の中の

境こそ

苦しみの因

不二を悟れよ】

 

◉人には自我があります。

 

他と分け隔て差別区別するという優越意識もその一つです。

 

しかし、全てに優劣はありません。

 

自他を分け隔て差別区別するという、捉(とら)われ
、執着、煩悩、傲慢さこそが、人の苦しみ不幸の始まりであり、自分の魂を穢(けが)し貶(おとし)めます。

 

常に他との比較の中で生き、己高きと誇る傲慢さ、己特別であるとの錯覚。

 

傲慢さは心の束縛です。

 

二元性の世界は、光と闇、善と悪、生と死、昼と夜、愛と憎悪、男と女、表と裏というようにあらゆる事象に陰陽、両極があります。

 

この二元性の表現媒体は、自我の歪み、不調和から生み出された幻影です。

 

全く両極対立するように見えますが、本質的には元一つです。

 

我々は、地球でたくさんの分離意識体験をし、自我意識こそが自分の中に二元性を生み出していることを認識し、そしてこの宇宙は元一つであることを理解することが、この二元性の世界にいる目的の一つです。

 

大和魂の「和」は、輪となり、全てを結び、この二元性を統合するという意味。

 

しかし、「統合」という言葉より、「不二」という言葉の方が、真を表すには、相応しい言葉です。

 

「統合」は、二つの異なる物が合わさるという意味ですが、それに対して、「不二」は、元々一つであったものが、二つに分かれて見えるのは幻影であるという見方です。

 

肉体与えられ二元性の世界にいるからこそ、人は霊的進化を為すことができます。

 

二元性の世界は、自他含み、全てが強力な分離感で成り立っています。

 

愛こそがこの二元性を超え分離感を消し去るもの。

 

愛は、二元性を超えるところにあります。

 

そして、

 

己の想いや行為の全てが、全体の想いや行為として成立していることを自覚していなければなりません。

 

己が個人でやっている行為でも、個を超え、全体としての行為の象徴となっているのが、この世の事実です。

 

つまり、己が何をしようが、即、それが宇宙全体で行なったことになります。

 

全ての事象が、相互関係を持ち、大宇宙と小宇宙という、天地の照応関係。

 

物質界として観ると、視点が狭すぎ本質が見えてきません。

 

ちょっと視点を変えてみれば、身体が大宇宙、物質世界は小宇宙とも言えます。

 

周波数を上げて感得すれば、どちらも全く区別はありません。

 

全てを粒子、波動として感じるだけです。

 

もっと言えば、日常の全てが神事です。

 

森羅万象全ては不可視レベルの波動と周波数で相応相互に関係し合い複雑に影響し合って成り立っています。

 

誰が何をやっても、天地照応、宇宙に影響しますし、もちろん皆さんの祈りや行動も天地照応宇宙に即影響します。

 

御神事は特別なものではありません。毎日の全てが御神事です。

 

人は、人生の様々な場面で毎日選択をしています。

 

幸も不幸も、創造も破壊も、光も闇も、何もかも己の想念通りのままが目の前に現実として展開します。

 

明るい光を選択すれば、明るい現実が目の前に展開し、二元性から離脱しますが、暗く闇の世界を選択すれば、二元性という狭き世界に留まることになります。

 

分離意識が起こるので、この二元性ワールドは、魂修行には非常にいいのですが、脱出するにはなかなか難しいものです。

 

しかし、今現在は、地球の波動上昇と人の波動上昇が起こっているので、この二元性から解放されやすい磁場が出来ています。

 

全てにおいて、エネルギーシフトが起こっています。

 

宇宙摂理に沿った生き方をし、清浄なる波動を放っている方々は、本来の霊的能力が目覚め本来の魂の姿に戻っていきます。

 

二元性離脱し、魂を大きく進化させる機会を我々はいただいてるわけですから、感謝し、努力精進怠ることなく、この世での修行を進めることができたらいいですね。

 

人は神の分け御霊。

 

この世の初めには、人は神から許しを与えられ多くの御恵み、能力を賜りました。

 

しかし、その御恵み、能力が一つひとつ取り上げられた理由は、人の我欲、傲慢さ、自己中心で人が生きるようになったからです。

 

それ故、人は今元の力を神から許されるように、御魂を磨いて己の穢れを浄め高める努力をしなければなりません。

 

人は神にほんの少しでも近づきたいと思うもの。

 

人が神に近づくというのは、再度神から許され、神が人に御魂分け与えた最初の時に与えて下さった元の力を持つことです。

 

その為に、人は自分に見合った行(ぎょう)を課され、元の魂に浄まるまで行は続きます。

 

 

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