白光となり生きよ

昭和天皇にお仕えされていた方のお孫さんである友人が、生前このように言ってました。

 

『娑婆世界に住む衆生にとって、この世は「顚倒(てんどう)の世」です。』と。

 

「顚倒」とは全て逆に取ること。逆に取り、逆に思い、逆に考え、逆に言い、逆に行動する、全てに逆に受けて味わうことです。

 

神の禊ぎも適わぬほどに、汚染腐敗深めて堕ちる今。

 

神の意に背き、地球の循環、宇宙の循環、全ての調和を乱すものならば、いずれ壊れ、崩壊します。

 

今の自然崩壊、地球の乱れも、まさに顚倒の結果であり、人の作り出す罪穢れ、心の乱れを表しています。

 

その乱れた波動が地球を覆い、地軸の狂いとなります。

 

地軸が狂えば、宇宙の循環運行も乱れ、壊滅に向かいます。

 

「六根清浄」と申しますが、この「六根」にあるのが「根性(こんじょう)」です。

 

この根性が無い場合は「性根(しょうね)」が腐っていると申します。「根性」が顚倒して、下向きの「性根」に転じてしまってます。

 

天命は、宇宙産迂迦(うちゅううが)で生産(うみ)出された丹生遺伝子を三つに浮分(ふわ)けされ(植物・動物・人間)、それを伊勢(いせい=異性)に区分けして六とされ、宇宙産六原の「知瑠恵(しるめぐみ)〈生命界が永遠の弥栄であるよう、どこまでも照り輝く神の叡智〉」を、六根を通して知っていくように、天の意を生身に組み込ませ、生命を誕生させていくために三と六の神仕組みを使い、三と六の生命を誕生させました。

 

これが三(み)・六(ろく)の世界の仕組みです。

 

「根」は具体的、具象的なもの、肉体、物質、存在の根源、物事の根本、などを示します。

 

つまり「存る世界」の元です。

 

「性(しょう)」は一定の時の流れを踏まえた抽象的な概念であり、「譬(たと)え」として言われている性質、性分、性的な差異、性能、性格、などを示しています。

 

つまり「無い世界」に向かう、「在る無しの橋渡しの世界」の語です。「在ると想えば在るし、無いと想えば無い」ものなのです。

 

どう想おうと「在る」ものだけを弄(いじ)くっていると、「在る世界」の思う壺にはまりこみます。

 

「在る無しの橋渡し世界」は「現(うつつ)と夢」の共有世界で、「自由自在」を会得するには欠くことの出来ない、謂(い)わば宇宙飛行士がシュミレーション・トレイニングをしている様なものです。

 

在ると思えるものを全て「在る」として行くと、「色(しき)」の世界になります。

 

赤も黄も青も緑も、・・・
すべての色を我が思いの中に取り込んで行くと「黒」になります。「在る世界」の極みが「黒」です。

 

「黒」はすべの「色」を取り込んだ色です。「黒」にはすべての色が含まれているわけです。

 

これを、得たものを、得た色を、得た光を、全て手放し、他者へ次第送りにして行くと「白光(びゃっこう)」になります。

 

「白光」はやはり、すべての光を含んでいるわけです。得ても手放し、吐き出し、離して行くと「白光」になります。

 

「黒色」と「白光」はどちらもすべての「色(いろ)」と「光(ひかり)」を含んでいる事に於いては同じななです。

 

しかし、「色」として存在するのか、「光」として存在するのかで大違いです。

 

この差は、「賢いのに自ら狂う」者と、「賢いから他者を救う」者との違いとまさしく同じなのです。

 

人類は世の発展、進化を進めてきましたが、高度の物質文化も今のこの顚倒の世に至っては、かえってあだとなってます。心の進化も遅れて、汚れも増すばかり。

 

人は神の禊ぎ、神の粛清を受けねばならず、今まさにその時を迎えています。

 

神は全てをご覧になられています。

 

人の言動すべてを通し、
人の言葉と心と魂、すべてを照らして明らかにされます。

 

言葉一つにも、些細な行い、態度にも、心の全てが現れます。

 

「日々の生活、言動、すべてを通して行を積み、魂こめて心身浄めよ。人類の罪を詫び、自分の足元を浄め固めて、白光となり生きよ。」

 

白光

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