昔友人が教えてくれたことです。
「嬉しい・辛い・哀しい・楽しい・素晴らしい・寂しい・・・」等、形容詞で現わされる語を心に受ける時、私たちは成長する。
無感動な時を過ごしたとて、心の成長には役立たない。我々の成長はジ~っとしているだけでは為されない。
外からの刺激を受ける事により、道なき道を歩み、悩みながら、やがて所々の広い見晴らしの良い空き地へ出てはホッとする。
心にとっては感動は最高の栄養になる。
つまり形容詞が魂を進化させて呉れる。
我々が形容詞の世界を歩むことにより、沢山んの気付きを得る。
辛い事、苦しい事からも「感動」は得られる。
「苦」が「楽」に反転し得た時、それは大きな感動となり、自信となり、生きがいへと繋がる。
感動する事を避けていては成長し得ない。
感動を無雑作に選択し過ぎては、心のバランスが崩れる。
「○○い」と云う言葉は、我々に魂の栄養を運んで呉れる。
だから「い」の付く言葉を大切に!
あらゆる存在は、過去の出来事を何らかの方法で記録し、記憶している。
それを取り出し、用いることが出来るかどうかに関わらず、記憶は内在し、蓄積していく。
突き詰めれば、「空間」そのものが「場」が、記録や記憶を有している事も有り得るわけです。
つまり「宇宙」はあらゆる記憶を記録している、と言えるのです。
そして、時に応じて、それぞれから預かり回収した記憶を、また個々に適宜プレゼントしてくれるのです。
この「記憶」の伝達手段になるものが「い(=命の根源の働き)」です。
「い」はある時には、「氣(き)」と呼ばれ、またある時には「時(じ)」「地(ぢ)」「自(じ)」「字(じ)」「事(じ)」などとも融合し、「血(ち)」となり「意(い)」とな、「火(ひ)」となり「智(ち)」となります。
「生命(いのち)」や「泉(いずみ)」や「飯(いい)」にも融け込みます。
そしてキッチリと秩序だって並べば「理(り)」と呼ばれ、生じれば「生(せい)」、消えゆけば「死(し)」と呼ばれる中にも「い」は働いているのです。
「い」は「記(き)」を司り、「紀(き)」となり「糸(し)」となって繋がり、連なります。
「宇宙は、去来する全ての出来事や意識の動きを記憶し、万有に語りかけているのかもしれない・・・」
言葉のうちに真実を見出す為には自らの感性・知性・理性のバランスと清浄さを保ち、悟性にまで高める必要があります。
自らの「霊・魂」の「球体」を、あらゆる方角に等方性を保って回転し広がり進んで行く宇宙の球体に感応させて、「言霊」そのものに感応させる事が必要。
我が魂と、言葉と、宇宙との三位一体の感応バランスが必要。
魂の宇宙と、言葉の宇宙と、大宇宙のホロニックな感応状態の維持が必要。
そこには、一つを知る事が大宇宙そのものを知る事と一致する。
「一即多(いっそくた)・多即一(たそくいつ)」です。