われ 思うに、人々は 神に頼み事ある時にだけ、神に近づき、神に頼る。
叶えて欲しいと 幾つも頼む。
どれも自我の願いばかり。
人への祈り、地球を思う祈りがありて、自我の祈りがあろうのに。
人の幸、喜びが、己の幸、喜びになることを 、何故望まぬ。
気づけよ。
幸多きものを望むなら、まずは人、地球への祈り、先にすべし。
そうなりて、神も動くというもの。
これからの世 わかっておるか。
生きていく為に、何をすべきか。
わかる時が、後の祭りとならぬよう、意を改めよ。
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「神」は何かを下さったり願いをきいて下さる存在ではありません。
人が神に近づくということは、神から分け与えられた魂を元の高さまで戻すこと。
そして、神が与えて下さった能力を、再び神から許され使えるようになるまで、霊行・体行・心行という修行はずっと続きます。
人の汚れた魂を浄め、元に還ることができるまで見守り続けていらっしゃる神も同じことです。
人と共に同じく行じています。
神は、人類の魂の曇りや濁りを取る手伝いをせんが為、聖人を遣わせたり、宗教の祖に託したりしますが、己の我欲・利益のみを優先し、追い求める者が多すぎます。
その愚を積みたる魂はあの世に行ってから、より厳しき行を課せられます。
曇りや濁りを取ってくれる「みぞぎ」や「はらい」である「神事(しんじ)」は、「心事(しんじ)」であり、「真事(しんじ)」です。
我が心の奥に眠れし神を目覚めさせ、清らかな心で祈りを捧げ、行動することを、神は願っています。
我々が何物にも囚われない「自由自在」を得た時、眉間の「第三の眼」が開き、大宇宙に感応し、多機能・多能力センサーが活動し始めます。
この極りを「成道 (じょうどう)」と言います。
「一」が「多・全」をコントロールできる状態です。
この世とあの世の全ては「進行する渦巻き」の世界で、「渦巻き」は「求心力・引力」と「遠心力・斥力」を同時に持ち、引っ張りながら、遠ざけるので、ある状態で定常状態が生まれます。
「渦巻き」は「スピン共鳴」しますから、繋がっていないようにみえても、感応呼応します。
これにより「以心伝心」の情報伝達が可能となります。