神はどこにでもおられる故、真に神の存在を知り、人がそれぞれの心の中に神の社を作り、全てにおいて感謝で生きられるのならば、本来、神社と言う形は必要なし。
なれど、今の世は、まだ神代の時代に戻る始めの第一歩、まだ神社の形必要なり。
神社は人が神を敬い、神聖無垢なる感謝の祈りを捧げ、神縁繋ぎ、内を見つめ祈る場として建てたものなれば、その心を神も喜ぶ。
祭りは神との交流の場なり。
心をひとつにし、力を合わせ神輿を担ぐ祭りは、和の心そのものであり、輪を広げる素晴らしき伝統である。
神と人、人と人とを結び、すべてが和することの素晴らしさを教えてくれる祭りと神社。
和の伝統、和の財産を、絶やすことなかれ。
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神様が最も喜ばれるのは、人の真の純粋無垢の、神への感謝と、神への奉仕と、神への奉納です。
奉納は、お神酒でも、金銭でも、山の幸や海の幸でも、工芸品でも、農作物でも、心こもるものであればなんでも喜ばれます。
豪華なお供え物でなくても、その方の誠の真心のこもる物や奉仕であれば、わずかでも、神様は喜び、その心を受け取ってくださいます。
真心こもる神への感謝、奉納、奉仕は、一つの証であり、己の禊ぎとなり、己を浄めていただけます。
執着祓い、浄めていただけば、心身も軽くなり、神に近づくご縁もいただきます。
人は多くの執着を持っているものです。その執着を祓い、禊いでいただく、その証がこれらの奉納、供物、奉仕です。
古代の人は「天下る神は、山に降りる」と考えていました。
山は全ての命を養い育む水を蓄え、山の幸を与えて下さる源であり、人が人として生きていく上で欠かせない木材の供給源でもあります。
里の命と文化・伝統を支える重要な役割を担う場所であるからこそ、人は山に神の奇霊(くしび)なる働きを認め祀ってきました。
神祭りの原点は、大自然そのものの中に潜む目に見えない力を畏れ、崇め、感謝するという心の中にあります。
鳥居をくぐり、境内に一歩足を踏み入れ、澄みきった清らかな空気に触れると、心身が清々しくなり、おのずと神殿の前で目を閉じ、手を合わせたくなります。
これが日本人の心の奥底にある神道感なのでしょうが、
この感覚というのは、いったいどこから湧き上がって来るのでしょうか?
そして、人は何故手を合わせるのでしょうか?
神道では、「恩頼(みたまのふゆ)」という言葉があります。
神の霊力や恵や加護の意味ですが、「御魂(みたま)」+「殖(ふ)ゆ・増(ふ)ゆ・振(ふ)ゆ」と捉えられています。
小さく揺り動かすことによって、生命力が目覚め、その人の魂の力が発揮されると考えたから、神の御魂を招いて魂を拡大させるのです。
人は神の恩頼をいただくことで、生命力を与えられているということです。
神社での参拝は、そのような神威を授かる為の、人の最も素直な想いの現れであり、かつ、人の感謝を伝える神事であるということです。
祈りには、己の我欲・利益やその他諸々の自己中心的な願いよりも、まずは、生かされていることへの感謝が出来るといいです。
神は、人の純粋で無欲なる願いを受け取り、その方の御魂の姿を見て力を授けて下さいます。
邪心で祈れば、神仕組みにて、その方の曇りや汚れや誤りを示し正され、禊により浄め、その方に気づきを与えようとします。
自分の祈りが届かない時は、自身の行いや心を反省し、詫びて、感謝すると良いでしょう。
このような言葉があります。
「神は人の敬いによりて、その威を増し、人は神の徳によりて、運を添う」。
つまり、人の敬信にて神が威力を増し、それと相乗して、人の運も拓けるということです。
神を信じるということは、神社や聖地に行ったり、神事に参加したり見たりするだけではなく、日常生活の全てにおいて、心をこめて、心を尽くして、一日一日を大切にしながら、常に神と共に生きるということです。
宇宙万物全てに宿れる神の慈愛に感謝を捧げ、現象事象に神意を読み取り、清き波動を発する魂でありたいです。