文明の発展の歪み、今この世に次々に表れる。
便利なる物品で溢れるは、生活にゆとりをもたらしもするが、便利さと共に失いしもの、いかに多きことか。
物質なるは、人の心を、惑わし、乱し、曇らすのみならず、時には、癒し、慰め、潤いを与えるありがたきもの。
なれど、過剰の物質、便利さ、金銭は、心穢すの素となる。
適度の物質、便利さ、豊かさありて、人は満ちたり感謝で生きるなり。
便利なる生活は物事の真実・本質を見極める目を曇らせる。
この世には善と見えるが悪のもの、悪と見えるが善のもの多し。
常に己正しき、善なりと、思いこむは道を誤つ元。
中道の精神で謙虚に生きるが肝心なり。
宇宙の理(ことわり)に適う文明なれば、文明栄え、便利なるは悪しきにあらず。
大難となる前に、文明の過ちに気づき、改めるべし。
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友人との会話から、「便利さ」について。
「便利さ」の時代となり、ほとんどの人々がインスタント感覚に成っている。
他者の手により、予(あらかじ)め用意された物を、自分自身は簡単に少しだけ手を加えて利用する事に慣らされて来ている。
大半が他者の手になる物なのだが、最後に利用したものが、「まるで自分が用意した」かの錯覚に、陥り出している。
「便利」とは「他者の業功(ぎょうこう)を、自らの都合に利用する事なり。」と云う観である。
しかし、そもそも「便利」とは「大小便等の排泄物」を云う。つまり、「大小便」その物を指す。
本当に良い栄養分は、既に身に吸収された後の「かす」や「毒素」や「汚れ」なのである。率直に言って「残りカス」である。
「便利」は「堕落の素」ともなる。
造る喜び、「準備し、手を加え、心を注ぎ、他者を喜ばせる事を、自らの愉(たの)しみとすること。」は、「便利の単なる受益者」には味わうことはできない。
「喜び」は、「与えられたるもの」の感覚であり、「愉しみ」は「自らの行為を振り返り、見つけ出した価値ある意義」から生ずる「一種の諭(さと)り」である。
「喜びは感覚」「愉しみは諭り」である。
この与えられた「喜び」は、奪われたり途切れたりすると「怒り」に変わる。そして更に、「哀れ」な惨めさに変貌する。
精々(せいぜい)、与えられている内が「楽」なのである。
「喜怒哀楽」とはこの事を言う。
「喜(き)」が変じて「怒(ど)」となり更に「哀(あい」」となる。
与えられたる内のみ「楽(らく)」なり、である。
「愉しみ」は、苦労した過程その物の味わいが醸し出すもので「諭り」に近い。
「行者の歓喜(かんき)」である。同じ与えられても「自ら勧(すす)んで行(ぎょう)じた、健全な尊い汗」に対する「天からの御褒美」なのである。
「便利主義者」には味わえない心持ちである。
「喜び」は変じ易い。「愉しみ」は心身の奥深く滲み入り消える事がない。「愉しみ」は「魂」が受けるのである。
時には「喜び」を受けさせて頂く事も要るだろう。それにより、「生かされる」事も多いのだから・・・。
だけども、実は「有り難い」事なのである。「有り難さ」が無くなると「貪(むさぼ)り」に変わる。
一旦、貪り出すと人は更に、更に・・・と、止(とど)まるところを知らない。
「人」と云うものは「利用」するばかりで、「更に」、「更に」、・・・と言い出す。
これを「便利」と言う。
「愉しみ」の得られない「カスの喜び」なのである。
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便利な世の中の全てを否定しているわけではありません。
確かに便利なものは便利で、有効に使い、ありがたく利用させていただけばよいと思います。
ただ 何もかもがそういう便利なものばかりになっていくと 便利さは堕落の素となり 努力をしないようになりますし、それが害を呼ぶ事に気づかなければなりません。
料理もできる限り、愛をこめて作りたいものです。
手作りの料理は、栄養と力があるだけでなく、疲れた身体と心を癒す、愛の氣も与えます。
便利さばかりに頼ることないように 今一度自分の生活・生き方を見直してみるといいですね。