ハワイ諸島の人々にとっての神というのは、先祖のスピリットと定義されています。
中でも、最も偉大なスピリットは、一番遠い先祖たちで、全ての生き物に命を与え、全ての自然の力を動かし、人々に美徳、強さ、才能を与える究極の源と捉えています。
厳格なタブー制度は、この根元の力の流れを護るために創られており、法律や社会組織の基盤となっています。
彼らの世界では、物も人も神も全てが自然であり、全体を構成する絶対に必要な一部であり、成功とは、その自然を敬いながら共に調和して暮らしていくことであると捉えています。
信仰が生活のあらゆる面に深く浸透しているポリネシアは日本とよく似ています。
アロハ州と呼ばれるハワイを訪れた時、シンボルともいえる「アロハ」という言葉で対応されましたが、アロハの直訳としては、「生命の息」を意味し、生きていく過程、人生、お互いに愛と敬意の心を持つことを現す言葉です。
自分も愛し、他も愛する。自他の愛と精神を理解し、愛のエネルギーのやり取りをすること、そして調和も意味します。
前向きな生き方や精神を示し、それが周りに大きく広がって行くということがアロハの精神だということです。
A Akahai, meaning kindness, to be expressed with tenderness, (アカハイ 親切 優しさの表現)
L Lokahi, meaning unity, to be expressed with harmony, (ロカヒ 一致 調和の表現)
O Oluolu, meaning agreeable, to be expressed with pleasantness, (オルオル 賛成 楽しさの表現)
H Haahaa, meaning humility, to be expressed with modesty, (ハアハア 謙遜 控えめさの表現)
A Ahonui, meaning patience, to be expressed with perseverance. (アホヌイ 我慢 忍耐の表現)
アロハは、お互いへの愛や配慮や思いやりの心が込められているとても温かい言霊です。アロハの精神、とても素敵です。
二世の強さと精神を考える時、日本刀を思い起こさせます。
日本刀は、二つの金属と融合させる特別なプロセスを経てできます。
刃の外側が硬い金属でできているのに対して、中央部は、打ち伸ばされやすい柔らかな金属でできています。
二つの金属は、特別に強い刃を創りあげるため、数百回たたかれ、数百回火にくべられます。
二つの金属の融合を示す日本刀の断面は、ひとつは硬く強い、そしてもうひとつは柔らかく弾力がある。二世の強さと精神のようです。
二世が、両親、先生、日曜学校や日本語学校からでさえも学んだ国民性は、刃の柔らかで弾力がある部分です。
全ての不平等に耐えるためのガンバリという特性、深い恩義や義理、他の人のお陰で得た恩恵への感謝や感謝の言葉は、日本人の移民の両親たちが意識してアメリカ生まれの子供たちに浸み込ませた教えでした。
鋼のように硬い刃の部分は二世がアメリカの学校で学んだことです。
「日系二世は、日本刀のようである」。柔らかな部分と硬い部分を同時に持ち合わせた精神。
ここで、日本人の精神についても考えてみたいと思います。
外国人が「日本人はよくわからない」と言いますが、本当にこの日本 人の精神を理解するのは難しいみたいです。
私に御縁ある外国人は皆理解するのに苦労 していました。 日本はオキシモロンの国なのか?
オキシモロンというのは、ギリシャ語から来た修辞学用語ですが、たと えば「ゆっくり急げ」とか「大きな小犬」とか「欠点のないのが欠点」 とか・・・パッと見たとき「ありえな〜い」というような 反対概念 の共存を示します。
「菊」というのは日本人にとって特別なお花でしょうが、同時に戦時中の外国人にとっては敵意と 嫌悪の対象だった日本の皇室のシンボでもあります。
刀も殺人の道具であり、同時 に美術品です。こういう感じのオキシモロンが一つに重なって日本という国を作り、日本人の精神を作っているような気がします。
西洋の方々は、Yes Noがはっきりしていて、あいまいさがないような気が します。
仏教でもキリスト教でも神道でもなんでも受け入れる、このオ キシモロン的な精神性を持っている日本人だからこそ 人に寛大で相手 の立場にたって物事みることができる。
実際外国人と生活してみるとよくわかります。いかに日本人と違うか ということが。
このオキシモロン的な感覚が彼らにはないような。どちら がいいとか悪いということではないんです。ただ 違うと感じざ るを得ない。
自分はどちらも好きです。違うからお互い学び合える。しかし、このオキシモロン的な精神性を持ってる日本人が好きです。これは、神道の世界ですよね。
自然の中に深く神性をみようとする宇宙的な捉え方。
国際フォーラムでダライ・ラマも仰ってました。 「神道は日本人の一部であり自分の中に存在しているものであり、日本人の遺産である」と。
神道は自然に対する畏敬の念や尊敬の念を呼び起こし、私たちがその一 部であることを思い出させてくれ、自然の搾取者であってはならないという感覚を湧きあがらせる宇宙的な次元のものですよね。 この神道的考え、オキシモロン的感覚に世の人がなったとき世界はもっと平和になるでしょう。
日本人として生まれ、日本にいるからにはみなこの精神性を世に広げ世界平和に繋げる役割があると思います。
民族性の違いを考えると、日本の縄文時代の墳墓の方位は、太陽光線のもっとも衰えた時期に射し昇る朝日の方角に向けられていて、魂の再生や復活を願う信仰の現れだと言ってる人もいます。
自然界の蘇りと魂の蘇りがひとつの連続した事象であることを示しているのかもしれませんね。
他にも自然界の生命の根源的な形態である渦巻きは、再生する魂の象徴で、太陽も海も川も魂も渦巻きのパタ ーンを持っています。
このような魂の再生や自然崇拝を基層信仰に持つ民族は、全ては「元ひとつ」というのを知っていて、だからこそオキシモロン的な考え方ができるのではないでしょうか。
キリスト教では魂の再生 自然崇拝という信仰ではないですよね。だからなんでも切り離して考えるという精神性を持っているのかもしれません。
日本人は、素晴らしいですね。全ては元ひとつ。肉体から魂が出れば、誰だって全ての存在が繋がっていることを知っている。地球の人が、早くこれに気づき、争いのない、愛溢れる地球になることを願っています。
国が違えば国民性も違う。他の民族や文化に接し学ぶことは我が国・国民を見つめることでもあります。お互いの良きところを学び合い、それぞれの持ち味を活かし、尊重し合い、みんなで良き地球にしていくことができたらと思います。