人の生命そのものが、神の愛なり、光なり。
ならば、人の愛は、本来、空より広く海より深いもの。
人は、神の分け御魂を賜りし。故に、行なう全ては神の御心、祈りの全ては神に通じゆく。
神に問うこと無しに、自ずと行い進むが真の姿なり。
神に問うて導かれるは、修行、禊ぎ、浄化、足らざる証。
すべての存在(いのち)を光として観るのが、神惟(かんながら)の道〈=神の御心のままに〉。
我見で思えば、全ては歪んで観える。
神仏の意に適う想いで「惟(おも)う」が、高次の「お も う」。
この世の全ての存在に、光の「たま」を観る時、そなたの心は大宇宙に融和し、全てのいのちの輝きを感じるであろう。
全てが溶け合い、繋がり合い、己自身であることを識(し)るだろう。
目の前の存在たちを観る時、惟神の意識で惟(おも)えば、宇宙と感応。
そなたの魂は、まばゆい光で満たされる。
自他の区別なくなり、全て元一つ、広大無辺の命が智慧となり、溢れていることに気づくだろう。
元一つで全ての命を惟う時、そなたの光、燦然と輝き、宇宙が最も望む己に成るだろう。
愛しき魂(たま)たち、光を透す透明な管となれ、天地を繋ぐ柱となれ。