弘法大師は詩文に秀でていましたが、「性霊集」の中に魂に響く詩文がありますのでご紹介します。
水月(すいげつ)の喩(ゆ)を詠(えい)ず <詠水月喩>
桂影団団寥廓飛 <桂影団団(けいえいたんたん)として寥廓(りょうかく)に飛び>
=月は円に満ちて虚空に浮かび
千河万器各分暉 <千河万器(せんがばんき)おのおの暉(ひかり)を分かつ>
=幾千の河、幾万のさかずきがそれぞれ月影を映す
法身寂寂大空住 <法身寂寂(ほうしんせきせき)として大空(だいくう)に住し>
=仏の真実身は広大な空の深奥に静まり
諸趣衆生互入帰 <諸趣(しょしゅ)の衆生は互いに入帰(にゅうき)す>
=輪廻の諸世界に生きる者も皆、その光をやどす
水中円鏡是偽物 <水中の円鏡は是れ偽物にして>
=しかし水に映る月影は、円鏡のように完全無欠に見えても真実の月ではなく
身上吾我亦復非 <身上(しんじょう)の吾我(ごが)も亦復非(またひ)なり>
=個々の身体にやどる自我もまた仮の事象であり、そこに実体はない
如如不動為人説 <如如不動(にょにょふどう)にして人の為に説き>
=平等無差別の真実においてゆるぎなくあり、そのことを多くの人に告げ
兼著如来大悲衣 <兼ねて如来大悲の衣を着よ>
=あわせて如来の大悲を衣とせよ
この詩の前半4行では、千河万器が一つの月影を映すように我にも仏の身体が分かたれているといい、即身成仏の円融の境地を表していますが、後半では水面の月だけを見るのでは幻にとらわれ、光の真実を見ないことになる。我執(がしゅう)を離れて慈悲に生きよと戒められています。( by 高野山真言宗教学部)
「真実でないものを真実と見るような思いこみにとらわれること」を戒めた詩文です。私たちは真実でないものを見ていろいろ反応していることが多いです。水面の月を見て 本物を見ず振り回されているような感じです。
「個々の身体に宿る自我も仮の姿で実体はない」と言っています。人を通していろいろな姿を見せられますけど、その方の本来の姿(清浄なる姿=一番きれいな姿)を見抜き 表面部分だけを見ることや言葉だけに反応しないようにしたいものです。
仏の心を知ることは仏の心になりきること。仏の心になりきることで衆生の心がわかり同じになる。仏の心になりきった時に本質が見えてくる。仏の心になりきるためには 我執を離れてひたすら慈悲に生きよ!ということです。
弘法大師の言葉に「もし自心を知るは即ち仏心を知るなり、仏心を知るは即ち衆生心を知るなり。三心平等なりと知るを大覚と名づく」とあります。
澄みきった心で人に接することで その方の澄みきった部分に共鳴しお互いの澄みきった部分を表に引き出す。
キラキラと輝く魂がどんどん増えるといいですね。