政府の自粛要請に従わない人に対して
非難する人が増えています。
自粛できない人や
コロナの感染者たちを
犯罪者のように見なして
制裁してしまう人たちがいます。
外出自粛、人との接触八割減を目指して
新型コロナウイルスの感染拡大を防ぐための自粛要請が出されています。
人々はその要請に応じて、
店を閉め、学校も休校になり、外出を控えて、
街も公園も人が少なく閑散としています。
そんな中で
人々の我慢と不安とストレスは増大しています。
今、何かがあるたびに
必ず批判が起こります。
時には、
日本国民総出で
批判の嵐。
いまや
新型コロナウイルスによって
個人よりも集団の意思決定を尊重することが
「正義」となっているかのようです。
集団に従わなければならない雰囲気の中では、
比較的自由な個人の発想は抑制され、
集団に完全に同調できない人を見ると
「他人の言動が許せない」
という感情が増幅していきます。
それに加えて
外出自粛でのストレスも加わり、
不安も加わり、
時に
病的な嫌がらせやSNSを使った集団リンチにまで発展することもあります。
ストレスや不安は
人を
攻撃的にします。
でも
その行為について
誰もが
正義感だと思ってやっているようです。
営業しているスポーツジムに怒り、
入口のドアを壊した人が逮捕されました。
医療従事者の家族たちが誹謗中傷されたり、
感染者のプライバシーを晒したり、
自粛しない人たちに激怒したり
感染者やその家族を差別にするような手段に出たり、
他県ナンバーの車が傷つけられたり、
山に行ってケガした人を徹底して集団制裁したり、
感染者滞在ホテルを放火したり、
公園で子供たちが遊んでいると警察に通報し、
長距離トラックの運転手の子供たちを登校拒否させた小学校もありました。
数か月前までは
おおらかだった社会は
過剰に演出されたコロナによって
「恐怖」や「不安」が増大し、
人の心までも急速に蝕んできたように思います。
自分たちと同じ思いを持たない人たちを攻撃する。
人類の歴史の中で
ずっと繰り返されてきたことが
個人でも、地方でも、国単位でも
いまだに起こり続けています。
コロナ脳となってしまった人たちは
まるで
狂信的な宗教のようです。
宗教も
それぞれの宗教は
「平和」や「愛」を掲げて
一見平和に見えても
他の宗教との対立が始まると
迫害や戦争へと発展してしまいます。
宗教の教えに従って人を殺すのは
罪ではないと信じてしまう。
コロナ教でも
政府の自粛要請に従わない人を責めるのは
正義であると信じています。
コロナ騒動のことも
各国首脳たちは「戦争」と呼んでいます。
いつのまにか
コロナ終息のためには
経済的な犠牲者がいくら出ても、
自粛協力が素晴らしいことだというように思わせてしまう。
宗教は
見えない世界のイメージを
支配するのに都合よく作り変えてしまいます。
コロナ教でも
見えないコロナのイメージを
やはり都合よく作り変えてしまいます。
宗教も
今回のコロナ教も
どちらも
誰か偉い人が言ったことに従うことによって
他を排除する動きが始まっています。
これからの時代は
そんな宗教からは離れてしまうことも提案します。
人に本当に大切なのは
宗教ではなく
宗教性なのです。
偉い人の言うことも盲目的に従わないで
自分のハートで考えることも提案します。
人に本当に大切なのは
他人に対する忠誠ではなく
自分の内在神に対する忠誠です。
コロナの自粛も
政府に言われたからしぶしぶ従う
のではなく
自分の魂が本当に正しいと思うこと
自分の魂が本当に喜ぶこと
を指針として
行動に移すことが大切だと思います。
これから先
もっと大きな決断が迫られることが
起きてきます。
その時に
政府の言うことに盲目的に従い続けて
もし
何か見返りを期待しているとしたら
確実に裏切られます。
でも
それを毎回政府のせいにして
愚痴を言っても
何も解決しません。
これからは盲従しない代わりに
国が自分に何をしてくれるかではなく
自分が国に何ができるか
自分が皆に何ができるか
を考えて
行動していく責任があります。
自分の魂が喜ぶこと、魂が正しいと思うこと
これらを実践していくには
責任が伴うのです。