『頼』は『頁』を『束』ねると書きます。昔は、骨や甲羅や木や竹に書き、穴を開け紐を通し一束
に束ねていました。
それには大切な教えが書かれていたわけです。
つまり頁を束ねた物が示すのは『教え』なのです。
先祖達が身を以って行じた『智慧』です。
是は何よりも『頼り』に成るわけです。
『頼もしい』とは、親や先祖の託した念いを解して、それを教えとして実行していることを指
します。

『頼』は『頁』を『束』ねると書きます。昔は、骨や甲羅や木や竹に書き、穴を開け紐を通し一束
に束ねていました。
それには大切な教えが書かれていたわけです。
つまり頁を束ねた物が示すのは『教え』なのです。
先祖達が身を以って行じた『智慧』です。
是は何よりも『頼り』に成るわけです。
『頼もしい』とは、親や先祖の託した念いを解して、それを教えとして実行していることを指
します。
二極化進む今
嘘 悪事 次から次へと露見し表面化され
善行為す美しき魂が生きやすい世と変わりゆく
不条理なるもの繁栄すること許されず消えゆく運命
本物のみが通用する良き世となる
本物見抜く目を持て
己を惑わし乱す素は己の心に有り
中庸保てぬうちは
起こる現象の本質・原因見抜けず苦しみ生む
中庸なれぬ その心が悪を拡げる
「教育」とは、意識の大地を耕す事。「耕す」の「耒(すき)」は、「大地を耕す耒」です。「井」は「水であり生命が湧き出ずる井戸」であり、「真理・智慧」の泉を顕していると解釈できます。「心の荒れ地を耕し、がれきや汚れを取り除き、潤いを与えること。」これを「教育」と言う。相手の心がまだ十分潤ってなく耕されていないのに、種を撒いてもいい芽は出ません。整うには、それなりの時間が必要でありタイミングがあります。
英語では耕すのことを「cultivate」と言いますよね。「文化(culture)という言葉はここから来ています。辞書で「文化」の第一の意味は「権力や刑罰を用いず導き教えること」です。「教育」です。
その教育を通し、人間が自然に対して働きかける過程で作り出した物質的・精神的所産が文化です。荒れ野にそのまま種を撒くのではなく、邪魔になる根を起こし、がれきを取り除き、整え、汗水たらし、しっかりと耕し、大地に水を浸透させ、潤わせ、風を読み、日差しを読み、時節をわきまえてから、ようやく一粒ず丁寧に間隔を踏まえ植えこんでいく。これを「教え育む 教育」と言います。
人間には肉体の年齢と魂の年齢があります。相手に合わせた教育ができるといいですね。
食や物あふれ便利になり過ぎた今の世
我欲にまみれ 我慢忍耐できぬ者増え
人を騙し命を奪ってでも金品奪う者もあり
周りの人を信じる事が難しい世なれど
人を信じる心を失うなかれ
己の周りにいる人 誰も信じられなくなる世ほど
悲しきものはなし
誰も信じることができぬ世
日本の終わりなり
闇強き今のこの時そこ
人と人との絆深め 信じることのできる人を増やしゆけよ
茲(ここ)とは 生まれてより父母の懐(ふところ)を不離(はなれず)して
父母の光と愛を受け継ぎ 物覚而育(ものおぼえしてそだ)つこと
人は父母の誠から生まれる
父母の間(ま)にひとつの凝(こ)りを為し生を享ける
これを間凝與(まこと)といふ
間凝與は 誠 真 信 光なり
茲とは 光を繋ぐこと
己を信じ 人を信じ 神を信じ
諦めることなく 光の世を創りたまえ
人は人生の中で幾度も試される
様々なる現象 人との出会い通じ
己の魂の 偏り 弱さ見せられ 欠けを知る
己を高きと思うなかれ
人を己より低しと見下すなかれ
人より高しと思う心 傲慢なるぞ
魂穢す邪氣無くなる時
大宇宙に融和し 己の魂 燦然と輝き
宇宙が最も望む己となることだろう
宇宙創設時
善悪二極別れしは
互いを補い 均衡 調和を保ち進化の為なり
そは 陰陽 表裏なる理なり
原初の悪は善を補う対なるもの
邪に非ず
なれど 宇宙の意図から外れ 悪は分化 分散 集りて
宇宙進化阻害し 神の認めぬ悪に変貌す
光の波動のみが宇宙意思から外れし悪を無にするなり
人は自らの心に惑わされるが故
あらゆる迷いの世界の波は揺れ動き 静まらず
心の源に還るのならば
心の広大な水は澄み渡り
その清らかな水は森羅万象全ての姿を歪みなく映し出す
神仏の御心をそのまま映し出し
この世に顕すことのできる
澄静(ちょうじょう)なる水となれ
人は失うことを恐れる
家 家族 健康 お金 地位 名誉 命
恐怖も 心配も 不安も 執着ある故湧き起る感情
己という小さな枠にのみ意識ある限り
苦しみは生まれる
宇宙に意識広げるなれば 己無きこと 失うものなど一切無きこと気づき
魂は光を増さん
場を活かし
時を活かし
人を活かし
物を活かし
想いを活かす為に
礼儀作法は 日本の中の隅々に有り
気配り 躾け 身に付けてきた教養
今までの人生で得た心の栄養が
身体から発する波動として また言霊として響き渡り
その者の品位 品格現れるなり
自然の霊威や神威というと・・・
『かしこ』という言葉を思いだします。
手紙の末尾に「かしこ」と書きます。
なぜ 「かしこ」なの???と思ったことはないですか?
「かしこし」を調べると、身も心もすくむような畏怖の気持ちをいうのが原義です。
海・山・風・雨・雪・川・雷・木・道・草・花・・・など
あらゆる自然に霊が宿っていることを認め、それらの霊威や神威に対する畏敬の念です。
祝詞の中にも「掛巻母畏伎」=(かけまくもかしこき)=言葉に出して言うのも畏れ多い。
とか「恐美恐美母日須」=(かしこみかしこみももうす)=敬い慎んで申し上げるというのがあり
ます。
自然の霊威や神威を恐れかしこむ気持ちから発展して、畏敬すべき力を持ってる人のことを表す賢
人という言葉が生まれたのでしょう。
宮中の「賢所」というのも納得いきます。
みなさんご存知のように、手紙の最後に書く「かしこ」というのは宛先人への敬意を表したもので
すが、この言葉が「自然の霊威や神威」に由来するものだということを日本人と して知っていたい
ですね。
日本語はやはり素晴らしいです。