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生きているその時間は

この世の全ての物や 見えないものや 心の中にある思いが一瞬一瞬を作っています

何を思うかで一瞬先が決まります

人は自分だけの力というのは 一瞬にも発揮することは出来ません

一瞬一瞬にも 己の力が発揮出来るように

誰もがここには見えない力と重なっているのです

見えない力とは

それぞれの先祖の繋がってきた命と思いと生きていく全ての術を与えられたものです

どんなに辛くとも 人は生きる術を本当は皆 結びとして知っているのです

人は一人では考えていることも

先祖たちからの生きる術を与えられているからこそ

初めて考えつくことも出来るのです

生きているとは こういうことです

生きていることに 不満がある者は

自分の命を繋いできてくれた先祖たちを敬う思いがないのです

先祖は 神と同じですよ

神と同じように 新しい命を与え 命を慈しみ 成長過程に心寄り添い 見守っている

手を貸すことも出来ず ただ見守る

心の中の痛みを察し 自分のことのように心を痛める

体なくとも心では涙を流し

一日一日を大切にと見守っているのです

命は繋がっているのですよ

命とは 体だけでなく 心の奥にある泉です

その命は 決してかれることなく 人としての愛を持っているのです

自分のこの一瞬一瞬を大切にしたいと思うことが

先祖たちの喜びでもあり 更に深く深く愛を与えてもらえることなのです

ここに居るというのは たくさんの命の繋がりありて出来ること

人としての命ならば このことを決して忘れてはならぬ

己は未熟なり

未熟だからこそ 人や動物と出会い 言葉や思いを通わせる

人を見て 我と思うことは

先祖たちの生きる術を教えているから

自分という生命は 命を大切にしていくことで

宇宙の中にも生まれた たったひとつの命だと理解出来よう

これからも 自分を信じ

人を敬い

全てに感謝出来る心を育てよ

憎しみや競争などなくても 人は自分との違いで人を見ておる

この心は必要なし

自分のありのままを認めること

勇気がないことも

よく間違えることも

自分を査定してしまうことも

誰でもあること

それがあるから 己の心を改心出来る

己の行いを改めることが出来る

ここにいてくれて ありがとございます

自らの気づきで 更に大きく成長していくことを願います

人は全て 私の心の中でも生きています

だからこそ 良き人生を歩んで欲しいと思っています

一瞬一瞬は 己の心と行いで作られていきますよ。

神々の思いには

この子は幸せにと願う心があることを忘れないでください

 

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運命とは己の心と行いの結果であると共に

家族やまわりの者たちの思いと行いの結果も繋がっておる

良き心でおれば 良き心の人間の中で心も体も育まれる

人は心がある故

心に毎日の一瞬一瞬を揺り動かされるもの

感情がある故

心の痛み 人の痛みも感じ取れるもの

世の中の流れ 人の心の動きあるからこそ

己にとって 良きもの 合わぬものが出てくる

心に無理せず 己に合わぬもの必要なし

心苦しくなるもの 手放すのみ

体辛くなるもの 無とするのみ

己に厳しくとは

常にあるもの 起こるもの 出会うものに合わせることではない

厳しくとは

己の向き合う必要なものから逃げずに受け入れること

そこから己にとって良き道を歩みだすこと

心痛め 体痛めてまですることではない

人を呪い 人を痛めつけ 優位に立とうとする者多し

人のせいにするために 己の心が苦しくなっておる者多し

心の淋しさを人のせいにせず

心の淋しさを 人との出会いや繋がりに求めているうちは

己の心の中の思いに向き合っておらぬということ

それに気づいて欲しい者多し

どんなに人が心愚かでおることか

人と比べてはならぬのに

必死に人に追いつき 追い越し 優越感を得る

心に落ちる闇もわからずに

どんな優位に立とうとも 人に認められるわけではなく

結果

心の淋しさは 大きく広がるのみ

だから 新たな出会いばかり求め続け

己のことを崇拝してくれる者とばかりと繋がる

なんて 心が愚かであること

それに気づかぬ者多すぎる

人はみな

ただそこに存在する

それだけで 愛を与え 愛を与えておること

どんなに素晴らしいことか

これに気づいて欲しいのみ

心の蓄えは 愛のみで良い

溢れ出るくらいの愛を常に蓄えておるのみ

それが こぼれるほどの笑顔になり

止まらないほどの幸せの笑いとなる

笑いこそ 人の心の愛そのものである

笑って過ごせることが 一番である

今日も たくさんの笑いと笑顔を

 

KONICA MINOLTA DIGITAL CAMERA
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人は光

人に光を与え 光を与えられる

人は本来 苔のように慎ましく生きていくもの

水をいただき 水を与える

人が発する光は優しさの愛

人が与える水は恵みの愛

光と水は自らの慈しみの心や恵みでもある

今を生き

今を活かされているのは

愛と恵みを与えられているから

自らを生かし

自らを生きているのは

自分を思う心があるから

もっと自分を大切に思っていいいのです

もっと自分を愛しく思っていいのです

自分に光と水を与えてこそ

人に光と水を与えられる

誰もひとりではありません

自分ひとりの力で生まれてこれたわけでもなく

自分ひとりの力でそこまで大きく育ったわけではありません

たくさんの光と水があったからです

どうか その光と水を永遠に

どうか その光と水を地球にも

どうか 自分を大切に

どうか 人を大切に

どうか 動物を大切に

どうか 自然を大切に

どうか 光と水を与えている地球を大切に

光は決して消えません

流れている水はいつも清らかですよ

それは あなたの中に流れる愛が滞る事なく流れ続けているから

あなたが生きているから

あなたの光 永遠なり

あなたの水 永遠なり

 

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「つきぬけて天上の紺曼珠沙華」 山口誓子

お彼岸・・・インドや中国や東南アジアでは春分の日や秋分の日に先祖のお墓まいりをするという習慣はありません。つまり、お彼岸というのは仏教の行事ではなく日本だけのもの。

日本はもともと農業を大切にしている国で農業が中心でしたから、お米を作る日本人にとって太陽ほど重要なものはないです。だから、昔から太陽に対する信仰があって、「今日も太陽が東から昇って西に沈みますように・・・そして太陽のめぐり合わせで春夏秋冬がきちんと訪れますよ〜に!」とお祈りしてました。そして、太陽が真東から昇り、真西に沈む春分と秋分はとても大切とされいて、その日をはさんで、前後3日間は太陽をお祀りする習慣があったそうです。だから、昔は、仏教行事ではなく農業のための神事だったということなのです。

仏教では極楽浄土は西方にあると言います。真西に太陽が沈み、その先に浄土がある・・・と考えて、先祖の供養をするようになりました。 お彼岸はご先祖様だけでなく太陽に感謝しお祈りできるといいですね。でも、本当はお彼岸だけお祈りするのではなく、毎日、常に太陽にも先祖にも周りの方々にも神々にも感謝の心を持って日々すごしたいですよね!

そして

お彼岸には、やはり ぼたもち&おはぎです(^.^)
ばたもちとおはぎの違いはご存知ですか?
春のお彼岸・・・ぼたもち
秋のお彼岸・・・おはぎ
何が違うのか?というと、こしあんか粒あんかの違い。
小豆の種まきの時期が4~6月で収穫が9~11月。 春のお彼岸まで保存していた小豆は皮が固くなるので、皮を取り外してこしあんにし、秋のお彼岸は、新鮮で皮も柔らかなので粒あんとして食べるのです。

ぼたもちやおはぎが何故お彼岸に食べられるようになったのかは・・・小豆は、元々中国で漢方薬として使われていたそうですが、それが江戸時代に日本に入ってきたそうです。その当時、砂糖も高級品。そして、昔から赤い色というのは魔除け効果があると信じられていたので、小豆は邪気を払うという意味で、御先祖供養として大切な日にお供えしたり大切な人への食べ物として作られていたそうです。

お米とあんこの二つのものを合わせることで、御先祖様と「心」と「心」を合わせるという意味もあるようです。
お彼岸だけでなく毎日御先祖様と心を合わせ感謝の想いを伝え共に生きることができるといいと思いますが、お彼岸という節目の日におはぎをお供えして、心を合わせ感謝の想いをお伝えできるといいですね(^.^)

赤色の効果ということで、おめでたい時のお赤飯についても記しておきます。

『和の知恵(by 藤野紘)』から

米というと、一般的には真っ白い白米を想起する。しかし、現代まで受け継がれてきた伝統的な米がもうひとつある。赤飯である。日本では、めでたい席などに臨む際、いまでも赤飯を炊いてお祝いする習慣がある。結婚式や出産祝い、七五三といったお祝い事には、赤飯は欠かせない。赤飯は、白米をわざわざ小豆といっしょに炊いて赤く染めている。赤は、日本人にとってはとても縁起のよい色だった。真っ赤に燃える太陽をイメージさせ、燃えるような気分になったり、幸福感を感じていた。そのため、赤色のものは魔除けになると、いつしか日本人のあいだで信じられるようになった。小豆と合体させて米を赤く染めることは、幸福を招き、縁起がよいとされたのである。しかし、赤飯をつくるのは魔除けの意味だけではない。日本人は、米は白いと常識的に思っているが、世界の米を調べてみると、米は大きくふたつの種類に分けられる。おなじみの丸くて白いジャポニカ種と、熱帯で穫れる長くて赤いインディカ種だ。縄文時代に日本にはじめて渡来してきた米は、このインディカ種とジャポニカ種の中間で、「赤米」とよばれるすこし赤みを帯びていたものだったという。この赤米は、豊臣秀吉がこの世を去るころまで、日本人のあいだで食されていた。こうした歴史の経緯から、日本人は赤い米に特別な思い入れをするようになった。日本の土地を守り、耕し、歴史を築き上げてきた先人たちが食べていた赤い米は、脈脈とつづいてきた日本の歴史を受け継ぐ食物なのだという気持ちである。儀式やお祭りを執り行うときには、古代の人たちが食べた赤米を食べて、古きよき時代を演出する。つまり、小豆を使って白米を赤くするのは、古代の色を再現しようという和の知恵だったのである。
おめでたいときに赤飯を食べるのは、縁起のよい色の米を食べてお祝いするだけでなく、信仰的な意味合いから、古代を演出して、古き良き時代を懐かしむ、われわれの祖先に感謝するという意味がこめられていたのである。(抜粋終了)

お赤飯の印象が変わりましたか?私たちの御先祖様への感謝の意味が含まれているのです(・。・)
お赤飯を食べる時、お祝いの気持ち そして 御先祖様、日本を支えてきて下さった全ての方々に感謝していただきましょうね。

今日は、おはぎをお供えし、御先祖様と一緒に秋の一日を楽しみたいと思います♪(^.^)おはぎ、楽しみ♪♪♪私、粒あんが好き(*^_^*)

 

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文明の発展と共に失いし感謝の心

人は金銭 食べ物 物質に満たされし時

更に多くを望む心湧き起る

なれど 災害などで被害を受け全てを失いし時

人は命あることのみに感謝し 命あることこそ

最高の幸せであること悟る

人は多くに満たされるほど 執着 こだわり 強くなり

物を粗末に扱い感謝の心も薄くなる

地球が抱える問題は 人間の我欲で起こりし事

次第に強まる立て替え立て直しの現象

地球破壊をくい止めるのも人間次第

一人ひとりが心の奥の神性呼び起こし

それぞれの役割自覚し全力を尽くすことを願う

人間の我欲で自然 宇宙の循環 運行も乱され

今地球は瀕死の状態なり

今の地球の瀕死の姿こそ 人間の姿なり

自然循環乱し地球を破壊する罪は重きものと心得よ

地上の穢れ 人間の魂の穢れ 祓わねばもう未来は無し

地球の問題 人智で解決為すこと可能なり

未来の子孫の為に祈れよ 人よ

未来の地球の為に動けよ 人よ

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「トシ」の語源は「穀物を意味した語トシの転義。穀物の実りは1年を周期としたところから」(日本語源大辞典)実りを意味していて、「稔」=「トシ」「ミノル」とあててました。日本では普通、稲は1年に1度実るから、昔は 稲の実りを意味していたようです。その「とし」が1年の単位を表す言葉へと変化していったようです。

「歳神様」は稲の神様であり、実りをもたらす神様です。歳神様の力が宿る「お年玉」は実りの力、霊力を示す言葉です。東北では、お正月に作る丸餅のことは「年玉」と言われているようです。「年玉」は歳神様にお供えするお餅で、そのお餅をいただくことで神様の恩頼(みたまのふゆ)をいただき、無事に1年を過ごすことができるという信仰です。歳神様の代理となる方、つまりその家の長から「お年玉」をいただくという習慣。歳神様からの霊力をいただくのが「お年玉」です。語源辞典にも載っていますが、お年玉が金銭になったのは最近のことのようです。お年玉の本当の意味、今、失われてしまってますよね。残念です。

「トシ」=「稔」=「神様の実りの霊力」=「年」

溢れるほどの神の恵みの中で積み重ねていく「年」。与えられている毎日の一瞬一瞬が宝です。

 

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己の生きる毎日が、幸を感じる事が出来ぬのは

生きている事に 感謝していないのだろう

どんなに悲しみあろうと

どんなに辛かろうと

どんなに逃げ出そうと

苦と共に生きてこそ

人としての優しさが生まれるもの

命を大切にと心から思わぬ為に

人を傷つけたりもする

自分の命は、他人の命

命ある全てのものが、自分の命となっておる

生きている意味わからぬもの

それでも良いのだ

生きて 生きて 生き抜いて

小さな花を見つけたように

生かされている事に気づき

生きていく事が、使命なのだとわかるもの

人は たくさんのものを理解出来ぬ

どんな事も経験せねば、何もわからぬもの

だから、わからぬものを 愚かだと非難すべきでない

非難する己を恥じるべき

人はどんなものも、人それぞれの感じ方、捉え方あり

同じであるものなし

同じでないから、そこに学びがあるのだ

共に学び、共に支え、共に助け、共に喜び、共に悲しみ、共に同じ思いとなりもする

そんな人との繋がりは

心をとても豊かにし、人を愛していく喜びとなり

苦しみを人のせいにするでない

怒りはそなたの感情あるゆえ、人のせいにするでない

これからは、人との関わり 大切となり

己の成長 人にあり

人の成長 己にあり

共に今の世 生きている

全てが己と思い、痛みは与えず、喜び与えよ

生きなさい

生きなさい

命は、生かすもの

心は、育てるもの

そなたたちが生きていること

我の喜びでもある

ありがたい、とてもありがたい

これからも、生きる喜びたくさん感じ

最後は この世に生まれ 良かったと思えるように

それぞれの毎日、生きてください

人々の笑顔が、光となり

希望の未来をつくり、未来の子供たちに笑顔を与える

己の行い、己の思い

未来を明るくしてください

己の為の未来も、己の思いで変わります

言葉も未来をつくり、己もつくる

成長し続ける事が、生きていくことなり

幸多き年を 皆が送れるようにと

我も心から明るい未来を思います

 

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こだわり 執着 迷い 嫉妬 疑い 我欲 憎悪

心の曇りが人の心と体の自由を妨げん

無欲の心で 他を気にせず わき目ふらず

高きを見つめ 日々精進

卑しき心捨て去り 与えられる霊業 御役を果たすことのみ

無心の努力を続け 今ある生の意味認め 受け入れ 喜び 感謝するなれば

余計なこだわり 執着 迷い 嫉妬 疑い 我欲  憎悪の心は消え 浄まらん

心苦しく自由でなき時 神との交信できぬもの

子供のような汚れ無き無邪気な心で神に委ねし生きるとき

こだわり 執着とれて真の自由を得られよう

無私無欲の境地で努力惜しまず 修行続けし魂の

光は波動となりて 地上を覆わん

不安や恐れの心は禁物なり

不安や恐れの心も波動となりて地上を覆わん

己に湧き起る暗き想いに打ち勝てよ

暗き想いに打ち勝つとは 排除することに非ず

悪の心を受け入れ 意を読み取り 光に転ずることなり

本来この世に善も悪もなし

そは相対尺度なる

闇の中の光

光の中の闇

同時に存在するとも言えるが 何も存在しないとも言えるもの

この世の現象 事象の裏表

同時に感じ取り 表面だけ見て振り回されることなかれ

一切のこだわり 執着無き 真に自由な心こそ

神に通じ 明るき光でこの世を照らし浄化せん

神に向き合いて恥じることなきよう

魂磨き 神の御意志(みこころ)顕す者となれ

人と比べる狭き人間尺度のくだらぬ競争するなかれ

神の測る尺度とは 神の御意志 適うか否か

真の価値を勘違いするなかれ

 

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一大事の前の大事。

大事の前の小事。

小事の前の小々事。

小々事の前の小小々事。

小小々事の前の・・・の前の・・・の前の・・・の前の微妙事(みみょうじ)。

まだ、事が起こる前です。「なんとなく」とか「予兆」とか「虫の知らせ」とか「直感」とも言える「微妙事」。微妙事の段階で感じ取れるか? それとも、一大事になってから、初めてわかるのか? 時は待たない・・・どちらでわかるかで、「まにあう」の意味が違ってくる。「間に合う」のか「魔に逢う」のか。

知ることは力である。
ミツバチも同様ですが、知識を得るには、原則として3通りありますよね。
1.生来の知識は遺伝物質に書きこまれている(本能)
2.知識は、自分自身の経験によって獲得される(学習)
3.高度な段階として、同じ種の仲間が経験した情報を伝え合う(情報交換)

学習と情報交換のために、感覚器官は外界と結びついています。感覚器官は、外界に対する受信的な窓としてでなく、中枢神経系の感覚統合系と連携して、生物学的に重要ではありますが、現実には、物理学的には存在しない情報を能動的に解釈し自分のものとしています。ミツバチは、生まれつきの能力・経験を通して学習する能力・そして情報交換をするという能力を最大限に活かして賢さの基盤となっています。人間も同じですよね。

「無生法忍」とう言葉がありますが、この世の中の本当の在り方を認知し、悟る時、本当の安らぎを感じることができると思います。全てのものは、不生不滅であるという真実の理(ことわり)をさとった境地が「無生法忍」。

真理は、綺麗な光の珠。真実の理とは、というと難しく聞こえるかもしれませんが、きっとシンプル。「理(ことわり)」とは・・・素直にそうしてみると、自分の心が爽やかで、明るく、清々しくなり、綺麗な光の珠になることを感じ取れる事(^^) もちろん、自らの心の赴くままに従えども則(のり)を超えず!です。この世とあの世の規則である理法に従いながら、他者を生かす真実の世界観を持つこと! 真実の素晴らしさをハッキリ・しっかり示すこと! 自ら、囚われを無くし、明るくなり、軽くなり、楽になり、笑い、愉しみ・・・廻りにも同じ事を教えてあげる!

つまり、『仁』です。
儒教の五常。五つの徳。人の守るべき五つの道「仁」「義」「礼」「智」「信」。この中の「仁」です。「仁」は「親しむ」こと。大系漢字明解には、以下のように記されてます。「人・二の二人が親しむ。一方の人に慈愛があるから、二人は三人となり、三人は萬人となる」
「仁」は「したしむ・いつくしむ」とも読みますよね。愛であり、恵みであり、思いやりです。人間だれしもが持っている素晴らしい資質です。以前、ダライ・ラマのお話を聞きに行った時、彼はこう仰ってました。『人間価値を促進して、人間の資質を高めて下さい。』と。この「仁」を廻りに響かせ、二人から三人へ、三人から萬人へと光の珠が繋がり大きな愛の輪ができるといいですよね(^^)

難しいことは考えず、「明るくなり、軽くなり、楽になり、笑い、愉しみ・・・」これです!

 

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この度の地球の立て直しは

人間の真なる姿 地球のあるべき姿を元に戻さんがための

宇宙規模の立て直しなり

全ては循環の中にあり

己の生き方とこの世に起こる現象全ては

繋がり合い 無関係になし

己の過ち この世の過ちに目を向け

現実を真正面から見つめよ

今この時

この世に生を享けたるは偶然に非ず

人の価値観 心 考え方 全てにおいて

変わらねば 立て直しはできぬ

地球規模なる改革は想像を絶する程大きなるもの

生半可な改革では元に戻らぬ

地球の全てがそなたたちだけのものではないとわかり

神の意に沿い生きておる者がどれだけいるのか

何かあって わかってたなどと言い訳いらぬ

もはや 地球は瀕死の状態

見せかけだけの平和に慢心するなかれ

今のこの世 己の我欲が具現化したるものなりて

罪無き者など誰一人としておらぬ

人よ

高き視点で物事見渡し 己の罪 悔い改めよ

日本は世界平和の要とならん

日本人は神に最も親しき民族なること

地球にとって大切なる役割担う民族なること

悟るがよい

 

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