「戒めを守護する」事を「権利を所有する」とはき違える「浅はかさ」。
人間のする間違いに、御決まりのパターンがあります。
神が必然を説く時の言葉を、聞き間違えるのです。
神は「~なる者は、~ねばならない」と説かれます。
それは、神の世界から必然を示す時の言葉です。
「~であると、~に必ずなる」と云う「必然の言」です。
「箴言(しんげん)」つまり、「戒めの言葉」です。
神の理法に於いて「例外なく、悉(ことごと)くそうなる」というのです。
「もし~ならば、ねばならない」とは言っても、その必然の行為を示し為すのは、神であり、
自然であり、宇宙なのです。
人間に「その必然の行為の代行者たれ」とは言っていないのです。
我々に権利が委ねられたのではないのです。
神の下僕として申し渡された「箴言」を取り違え、代わって遂行する権利を委譲されたかの如く勘
違いするのです。
そして、次にはのぼせ上がります。
一度「権利の代行者」となると「権利の所有者」に代わってきます
どんな「権利」も決して「代行して所有」されるものであってはならないのです。
これとよく似た現象が、やたら多く見られます。
特に「下僕」を「公僕」と置き換えると、誰でもピンと来るでしょう。
「公僕」「公務員」「役人」「代議士」「役職者」「~長」「~先生」「~官」・・・など。
彼らの中には「権利の所有者」たる面相をしている方がいますが、もともとは「箴言の守護者」
であることを忘れてしまっているのです。
「権利の所有者」という威圧的でポジティブな立場でなく、「箴言の守護者」という謙虚でネガ
ティブな「知者・賢者」の存在なのです。
「すべて我の力に非(あら)ず、この世の理法に従う智慧の遂行者」「知者・賢者」なのです。
「一切の奢りは身を滅ぼすばかりか、世を滅ぼす」のです。
それこそが、まさに凡ゆる、「箴言」に共通する「神の定めた条件」であり
「この世の理法」なのです。
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